公開日2026/02/04
神慈秀明会が信者に隠蔽している、元信者たちから起こされた裁判について紹介します。
神慈秀明会に対する不当利得返還請求訴訟が昭和61年(1986年)に提起されました。
請求が認められなかった原告(元東京支部助教師・元都庁職員)からの投稿です。
神慈秀明会被害ネットワークHP>過去の裁判情報>原告からの投稿1
私は、昭和49年(1974年)10月20日東京支部で入信し、その後8年余りにわたり、車輌長、東京支部男子部副責任者、世話人、献金推進委員、助教師等を務め、その間、東京信徒大会実行委員長の大任を全うするなど、精一杯の活動をしたのですが、
自らも日夜を問わぬ宗教活動や献金その他の金員拠出を厳しく強要される立場にあり、
結局、昭和57年末頃には2,000万円にも上る借金を抱えてしまい、
どう足掻いても莫大な額のガソリン代や交通費等のかかる宗教活動も、
教団から次々に強制される金員拠出の続行も無理という状態に追い込まれました。
言わば、教団にとっては何の役にも立たない信者になってしまったわけです。
そして、昭和58年1月に至り事実上の除名処分を受けることになったのですが、
入信から除名処分に至るまでの経緯の概要を簡単にお知らせ致します。
私は元来、「パチンコもジェット機も知らなかった古代人ならともかく、この科学の時代に生きながら宗教なんか信じる奴は精神病の親戚みたいなもんだ。」と考えており、当然のことながら、正月の神社参拝とか合格祈願などバカバカしいにも程があると思っていました。
ただ、35歳で神慈秀明会に入信するまでのいささか波乱に満ちた半生の中で、
「人間の善意こそが、最も尊ばれる価値観ではなかろうか。」と考えるようになり、
一方、ケースワーカーを勤めていたとき、病苦や貧困の実態に身近に接して心を痛めたことが、
後になって神慈秀明会に見事に洗脳される下地になったものと思われます。
何しろ、神慈秀明会は「人の幸せを祈ることの大切さ」を説き、
一方、絶対の神力の持ち主である明主によれば難病も治ることになっているのですからね。
さて、私は、昭和49年10月20日、石油業界では「その人あり」と知られたある実業家の娘に当たる信者(当時、世話人もしくは助教師)に
「××さん、世の中には頭で考えて解ることと、やってみて初めて解ることがあるのですよ。私達のやっているのは、その後の方のことなのですよ。」とか
自分のことしか考えられないような人達が段々増えていく社会をこのまま放っておいてよいだろうか、
ということからも私達は立ち上がったのです」などの実に熱のこもった2~3時間にも及ぶ説得を受け、東京支部で入信しました。
入信後、教団側の言う「絶対の救い主たる明主様なればこそ起こせる奇蹟、奇瑞」を体験し、
「世界人類滅亡の危機が迫っている。それを救うには神慈秀明会の明主様信仰しかない」という教義を信じるに至り、
教団側のどんな無理難題に対しても反発せず、指示を受ければ命がけと言っていい程の奉仕さえ厭わない信者になりました。
たとえば、昭和50年の国鉄のストライキのときは、役付信者達の輸送のため、ある晩、本部(京都)を出発して徹夜で車を運転して東京支部に着き、そのまま職場に出勤して夕方まで仕事をした後、そのまま東京支部に参拝して、再び本部に向けて徹夜で車を走らせたこともありました。
二晩とも、自分一人だけの運転です。
もっとも、入信1年目のこの「連続二晩徹夜運転」など、その後の7年に比べれば未だ楽な方でした。
即ち、男子部副責任者や世話人等の役を、時には重複して押し付けられ、責任を厳しく追及されたその後の7年間は正に信仰地獄でした。
休日は早朝から、そうでない日は仕事が終わるとすぐ東京支部に駆けつけて宗教活動に従事するのですが、
どんなに一生懸命頑張っても途方もない数の「お導き(勧誘)」ノルマや、莫大な額の献金達成は難しく、
しばしばT×元東京支部長の指導を戴くことになるのですが、
「指導」とは要するに、怒鳴られ、満座の中で立たされ、あるいは長時間正座させられるというようなことです。
しかも、「指導」は大抵深夜の12時頃行われ、月に2~3回は未明まで続くこともありました。
当然、フラフラの状態で出勤することになります。
加えて、親が危篤でも出勤しなければならないような大事な日に、宗教行事のために職場を休むこともあり、当然軋轢が生じます。
H×元東京支部長が、私を叱責ないし罵倒するときの常套手段は「お役所仕事やないんやで!」とか「役所の仕事をやっとるつもりか!」というようなものでしたが、
役所というのは、少なくとも東京都庁という所は、世間の人が想像するほど甘くはありません。
有給休暇と生理休暇の組み合わせで余りにも身勝手な休み方をしていたために、結局退職させられた女性職員の例や、
法学部出身でバランスシートの見方が分からないのに、その能力が必要なポストに配点されることになり、52歳で自ら辞職せざるを得なかった係長の例もあります。
当然、私の勤務状態も職場で問題となり、一般職員からは「あれでも係長か!」という声が挙がり、
上司から「公務員としての良心があるなら、宗教を取るか仕事を取るか選ぶよう」迫られたことも一度や二度ではありませんでした。
正に、職場は針のムシロでした。
もっとも、「教団内にあっては信仰地獄、世間では針のムシロ」を味わっていたのは私一人ではなく、
「本当に大切に思っている人には、とても入信は勧められない」と思わず本音をもらす世話人もいました、
それでも、教修第2講を終えた未信者が入信を渋れば、「あなたの幸せを思えばこそ、こうして熱心に(入信を)お勧めしているんですよ」と猫なで声を出さなければならないのが世話人の立場なのです。
通常の神経の持主なら、このような建て前と嘘が充満する教団に身を置くことを耐え難く思わずにはいられないのですが、
実際には誰もそれほど気にはしていなかったようです。
というのは、毎日毎日H×元東京支部長や宗務委員や教団教師から厳しく責めつけられているので、
そういう感覚はかなり鈍ってしまったようです。
かく申す私も、実はそれどころではありませんでした。
というのは、私の場合は、
酷いときには月に6回も東京・本部間を往復させられる活動費や
神苑献金(1,500万円)、東京支部建設献金(300万円)、その他の諸々の拠出金のため、
2,000万円もの借金ができてしまい、
自己破産寸前という状態だったのです。
もしそうなれば、懲戒免職とまではいきませんが、論旨免職は覚悟しなければなりません。
それでも尚、教団側の金銭的要求は緩むことはありませんでした。
昭和57年12月のことですが、H×元東京支部長に対するお歳暮か何かの奉仕金の一部が未納になっていることを責める電話が
教団教師から職場にかかってきて、厳しく催促されました。
耳をそばだてている周りの気配に冷汗の出る思いで「申し訳ないけど、今、仕事中ですから・・・」と言って電話を切ると、
すぐまた電話がかかってきて「話は未だ終わっていないでしょう! 一体、いつ納めるつもりですか!!」と語気鋭く迫られる始末です。
仕事が終わればただの一日も休むことなく私が東京支部に駆けつけているのは、その教団教師も知っているのです。
それなのに、わざわざ職場に電話をかけてくるというのは、
もはや「催促」ではなく「恐喝」と言うほかありません。
しかし、「恐喝」にしろ「催促」にしろ、これに応じる手立てはもはや私にはありませんでした。
そして、助教師として活動するための活動費を捻出する力もありませんでした。
それでは、どうしたら良いか・・・。
知れたことです。一般信者になることです。
しかし、まともに交渉したのでは助教師を降りることなど認められるわけがありません。
もし、そんなことを認めたら、我も我もと助教師が一般信者になるケースが続出するのは火を見るよりも明らかです。
そこで私は、翌年(昭和58年)1月3日の東京支部助教師会(そこでは、1年間のお導き数や献金等について種々のノルマが課せられ、必ず果たす旨約束させられます。)を欠席し、
一般信者になる決意を表明しました。
ところがその後は、東京支部に参拝に行くと、M×S×教団教師から「ここは、君のような者の来るところではない!」と怒鳴りつけられて追い出されたり、
K×K×教団教師から、東京支部長命令として、支部内への立入り禁止を告げられたりして、
言わば事実上の除名処分を受けたわけです。
私は、入信以来8年間にわたって拠出した数千万円の金員のうち、
信者としてそこに立入れるという前提で拠出した神苑建設献金1,500万円と東京支部建設献金300万円は、
その前提が無くなってしまったのだから返還されるべきものと考えて、
昭和61年、神慈秀明会に対して不当利得による返還請求の訴訟を起こしました。
ところが、証人として出廷したM×S×教団教師の
「神苑建設献金は、信者ひとりひとりが年頭に献金額を自ら申し出て、それを集計したものが各支部の献金目標額となる。教団本部から各支部に割り当てるというようなことはしていない。」
と言った類の嘘の証言が裁判所で認められ、教団側の主張が通り、私の全面敗訴となりました。
ちなみに、法廷で嘘の証言をすることは犯罪で、10年以下の懲役刑が定められています(刑法第169条)。
まだまだ大事なことが色々とあるのですが、いずれ集会でも開いてそのときお話しするつもりです。